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yuuの一人芝居

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創作秘話「あの瞳の輝きとわに」

創作秘話 「あの瞳の輝きとわに」2016/8/01

 今年の八月にこの原作を脚色して朗読劇として公演する劇団がある。
この作品を書いたのはもう四十年も前になる。作家の梅内ケイ子女史がお子さんのPTAの役員をしていた時に「母と女教師の会」の存在を話してくれぜひ其の話をくわしく知ろうと言う事で佐藤豊子先生を尋ねることにした。女史は「片燕」で女流文学賞の佳作に入り作家になろうか主婦で過ごそうかと悩んでいた時だった。
 二人、佐藤さんに約束を取り付けておたくを訪問することにした。まだ昔の家並みが続く幹線道路から少し入ったところに家を構えて住んでおられ、応接室に案内された。昔の子ども達のことと、戦中戦後、の日本の姿を克明に語られた。私には悔いがある、これは私がこれから背負って生きていく頸木の様なものですと、声を絞りながら語られた。
 県北の文教場に奉職していたとき、戦中に一人の教え子が満蒙開拓青少年義勇軍に入ろうかと迷っていると言う相談をかけられた。
 その子に行かないでとは言えなかった。
 この言葉は当時を生きていた人ならば妥当な答えだったろうが、その子を送ったしまった、その事が佐藤さんの一生の後悔、懺悔に苦しむことになったと言う事だった。
 色々の話をつぶやきとともに語られた。
 私にはそれで充分であった。書くテーマが決まり物語が構築し出していた。
 書き手としては微微に入り細に聞くと想像力を固定されるのでそれ以上は頭の中に留めなかった。
 そこからは書き手の想像力の勝負であった。
 この作品は戦中戦後の女教師の姿が見えれば後は子供たちの思いの中に入ってゆけば良かった。この作品で戦争の悲惨さを書くつもりはなかった。子供たちはどのような悲惨な状態でもそれを乗り越える力を持っているという考えがあった。それは動物としての本能のようなものなのだ。苦しみや悲しみ辛さはそんなに子供たちを落ち込んだ状況にはさせないだろうと思っていた。
 私には其の戦争は軍部だけの責任ではなく国民全員の責任ととらえていた。国民全体が戦争をしていた、それを望んでいたととらえていた。なぜなら新聞はありもしない戦果を紙面に載せて国民の民意を洗脳し煽っていた事実は否定できないものだったからだ。
 一人の少年を、当時を象徴する少年、軍国少年として書くことにした。教師も其の戦争に加担していると思った。
 痛まれない様な状況と反戦の言葉もかなり書くことにして取りかかった。
 家人は寝る前に鉛筆を二十本ばかり削っていてくれた。台本を書く場合には語る速さで台詞を書くと言うのが私の流儀であったから万年筆より鉛筆の方が書きやすかった。
朝日が白々と周囲を変えるときに一時間三十分の台本は書かれていた。
子供たちのあの瞳の輝きを絶対に失わせてはならない、そこには夢と希望があふれている。その事を頭の中に繰り返し繰り返し思い書き続けた。
戦争、これは人間が生きてきた歴史の中では不可欠のものだった。が、人間は常に再生して生き続けてきた。
私は大切なのはどのような苦難に逢っても生き抜く人間の命を見つめ続けたいと言う希有があった。
それが書き込められていたらいいと思った。
私も戦中に生まれ戦後の中を生きてきている。人間はそのような状態の時には自然に帰り雑草のような生命力を持ってたくましく大きく育つことを見てきている。
この作品は銀杏の木のごとくすくすくと大きくなってくれと言うテーゼーである。
過去の事を宿題にしてそれを乗り越え人間として其の死生観を持って次の世代に何を残すかと言う問題を問いながら生きてほしいために書いたと言える。
それが例え一人の女教師の悔恨と懺悔を持って生きていくとしても、これから生きていく人達、子供たちにとっては今を生きることが次世代への構築になっていなくてはならないと言う事を認識できる生き方を持った子供たち、瞳の輝きがとどまることなく続きこの世の中を見つめ、子どもたちに輝く瞳を持ち続けられる世の中を構築してほしいという願いが、この作品を書かせたと言える…。
この作品を公演したのは、倉敷研究会代表の土倉一馬さん、他多くの青年たちによって舞台に上がった。再演を繰り返したのもこの作品である。
きしくも、国際児童年、公演する青年たちは倉敷を「母と子を大切にする町」として母と子の像の建設を掲げていた。
この年、「干潮」を持って倉敷で初めての日本青年大会へ出場し目黒公会堂で迫真の演技をし観客を魅了した。数々の賞を頂いている。これらの功績は彼、土倉一馬さんの存在がなくては語れない。


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